お祖母ちゃん
頚椎脊髄症の具合が悪く 久しぶりに祖母のことを書きます
つい先日祖母が93歳で亡くなり
一言、ご苦労様でしたと感謝の思い出いっぱいでした
話はかわります
祖母は15歳で自分の姉を頼り静岡県の菊川市というところに渡航して来ました
日本語の読み書きもできないのに一人で日本に渡るのは相当な覚悟だと思います
昭和10年くらいだと思います
その頃はトンネル工事など危険な仕事は韓国の方が手っ取り早く稼げるということで
作業員の飯炊きなどで生計を立てていたと言っていた
夫(私の祖父)も一緒に生活するようになり現場の世話役、手配師と出世していったが
飲む打つ買うの三拍子揃ったヤクザもので生活は大変でくず鉄回収、焼肉屋、居酒屋、
女郎部屋、パチンコ屋、バー、スナックなどあらゆる職業を経験したと言っていた
一番儲かったのは戦前はある疲労がぽんと抜ける薬の製造とドブロク造りだと言っていた、現在の価値で20億は軽く稼いだと言っていた
夫が博打、女、事業拡大の失敗、政治運動に使い果たしてしまった
残ったのは昭和40年で5000万の借金と自宅だけだとこぼしていた
続く